縁起

乙津寺の歴史を紐解きます

奈良時代に行基菩薩が開基されてから1200年余を数える乙津寺。当寺にまつわるさまざまな言い伝えや、数々の文献に残されている記録から明らかにされた史実によって、その歴史を紐解くことができます。ここでは、より詳しい縁起について解説いたします。

天平10年(738年)

行基菩薩が西の赤坂の浜から東の各務野まで七里(28キロ)の中央にあった孤島「乙津島」に着船され、仏法縁由の地と定められました。行基菩薩は自ら十一面千手観音像を彫られ、草庵一宇を建てて安置されたのがこの寺の始まりと伝えられています。

弘仁4年(813年)

当寺を創建開山された弘法大師は、嵯峨天皇の勅命を受け、仏法を広めるため乙津島に着船されました。深穏しんおんな草庵の中に行基菩薩が彫られた十一面千手観音像を拝むことができ、そばにいる白髪のおきなが、「私はここの年老いた船頭です。先に行基菩薩がこの島に来られ、自ら十一面千手観音像を彫られて、暫く草庵を結ばれましたが、縁が満ちてきたので速やかに伽藍を営みましょう」と告げられました。(現在もこの白髪の翁を乙津寺の鎮守の神「船歩大明神」としてお祀りしています。)

大師は秘法を尽くし、ひたすら願うこと37日間、法鏡を龍神に手向けられますと、たちまち蒼海が桑田になりました。大勢の人が集まり、大いに感動したと伝えられています。この縁によって、この地は鏡島と言われるようになりました。また、乙津寺の名称は鎮守乙神(乙津島にいた神の名)に由来しています。

弘仁5年(814年)

この年の春に、嵯峨天皇の勅命により、弘法大師は七堂伽藍、塔頭五ヶ寺、鎮守などをわずか三年で造営されました。大師は感嘆され、「神託どおりに、ついに宿願は達成されました。私はもう長くは、留錫(滞在)できないのです」と話されました。

旅装支度されますと、たちまち僧や皆が集まり、別れを悲しみました。すると、大師は「出逢った者は必ず別れなければならないが、別れを悲しまないでいつかまた出逢えると思えば、お互いに楽しいではないか。みな励み勉めましょう。私はしばらくここに留まり、あなた達を導きましょう」とおっしゃられました。

大師は自ら弘法大師像を彫られ、皆で開山堂を建てて、大師の御影(像)を安置したのであります。そして、大師は御堂の前に“梅の杖”を逆さに立てて誓って言われました。「仏法この地に栄えれば、この杖に枝葉が栄えるだろう」と。すると不思議なことにこの“梅の杖”から、たちまち枝が出て葉がなったことから、世間に「梅寺」としても知られるようになったのであります。

現在では、当寺は京都の東寺、神奈川県の川崎大師と並び、日本三躰除厄弘法大師のひとつと数えられています。

さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺 法もひろまれ 鶯のこえ

弘法大師の自詠の歌

当寺に弘法大師42才自作の像あり。日本三躰除厄弘法の一に数えられ参拝者常に多し。

梅寺の‘肖像大師正作’とあり。大師挿木の梅樹あるを以って、俗に梅寺といわれる。

『濃飛両国通史「岐阜県教育会 編。原刊大正12年(1923年)1月25日、上巻P767」』

寛平5年(894年)

宇多天皇(第59代天皇)より「霊梅場」の額を賜わり、楼門に掲示しました。これ故に、当寺は国家鎮護のため天皇の祈願古道場として、元暦年中(1184~1185年)の頃までこのあたり一郷を寺領としました。

弘法大師の時代から真言宗で、歴代に阿闍梨和尚が続き、御室御所おむろごしょと称される仁和寺の疎開先であったと伝えられています。仁和寺には宇多天皇が居住を立てて住まわれていた、とされています。当寺にも縁があり、宇多天皇のお位牌をおまつりしています。

永正えいしょう年間(1504~1521年)に兵火によって宇多天皇直筆の「霊梅場」の額は焼失してしまいましたが、この頃から境内に入るのに、どんな偉い方でも馬の乗り入れができなかったとされる「下乗」の石碑と宇多天皇のご位牌『寛平法皇御尊碑』は戦災をまぬがれ、現在も存在しております。ちなみに、平安末期の元暦げんりゃく年間(1184~1185年)頃は、鏡島一帯が寺領であり、「下乗」の石碑は、戦前は中山道にあったそうです。

院政期から鎌倉時代初期にかけての僧侶・歌人であった西行さいぎょう法師(1118~1190年)は、諸国を漫遊している途中に当寺に寄られ、「梅の一枝をください」と言われましたが、小僧がすげなく断ったため、この一首を詠み去られたといいます。

梅の花 一枝をくれぬ 小僧めが 庇一つ鏡島の 乙津寺

西行法師

歴応年間(1338~1342年)

武家の土岐氏ときうじ※1弾正少弼だんじょうしょうひつが総領職を拝命し、美濃・尾張・伊勢の三カ国を所領していましたが、寺領の鏡島一郷を没収され、二百石の土地を寄付され、その後も、土岐氏代々の頼康よりやす成頼しげより政房まさふさなど、美濃国守護代々の祈願道場として外護されました。

また、後に連歌師の宗祇そうぎ法師(1421~1502年)が当寺の大師堂へ参籠され、次の句を詠まれました。現在も、宗祗法師の名と歌が刻まれた「飯尾宗祗法師歌石碑(鏡島弘法大師除厄尊像)」の石碑が残っています。

加賀しまは こと木も香ふ 梅の寺

宗祇法師

【注】
※1
土岐氏は美濃の豪族、第56代清和天皇の流れをくむ清和源氏せいわげんじ源頼光みなもとのよりみつの子孫・光信が、美濃国土岐郡土岐郷に居住したことに始まります。南北朝時代(1336~1392年)に、頼貞よりさだ足利尊氏あしかがたかうじに従って勢力を得て、美濃守護に補任され、以後、頼遠よりとお頼康よりやす頼雄よりかつなどが、足利氏の有力な武将として活躍しました。土岐氏は南北朝時代から戦国時代まで250年余にわたり、岐阜県の統治者でありました。詳しくは、「美濃源氏土岐氏主流の史考」(渡辺俊典しゅんすけ著)に記述されています。

文明5年(1473年)

室町時代末期の文明5年5月に、その時代一の学者といわれた関白の一条兼良いちじょうかねよしが、幼年から文学の友であった当寺6代目住職の能恩権僧都のうおんけんそうずに会いに乙津寺(塔頭長寧院)を訪れ、弘法大師の霊梅の詩について述べられました。

大師暦試東漸瑞

只有乙津占甲科

幾度人亡城又換

風流留得一枝花

一条兼良公

兼良は自身が書いた「藤川の記」の冒頭に、美濃国にいるゆかりの者と友人たちに会うのが美濃旅行の由縁だと記しています。兼良の正室・東御方ひがしのおんかたは、応仁の乱に荒れる京都を避けて美濃へ来られておりました。一条兼良公も多くの公家と同じく難を避け、地方に逃げようとされました。

末娘の梅津是心院了高尼ばいずぜしんいんりょうこうには乙津寺(塔頭長寧院)に身を寄せており、息子の良鎮りょうちんは京都にある曼殊院まんしゅいん大僧正だいそうじょうで、その領地が美濃国の芥見あくたみにありました。

そこで、兼良は乙津寺の小庵(長寧院)で、東御方をはじめ一族ゆかりの者と集まってくつろがれ、また美濃国守護代である川手城主・斎藤妙椿さいとうみょうちんの招待により、東御方と娘とともに英手(川手)の正法寺を訪れています。また、長良川の鵜飼も観賞いたしました。

兼良はまもなく奈良に帰られましたが、加賀島殿と呼ばれた東御方は鏡島を離れがたく、良鎮や了高尼に看取られながら享年69歳で没するまで鏡島に留まりました。

東御方の葬儀は小林寺(正法寺塔頭)で行われ(現在の岐阜市薬師町と思われます)、おくりなは小林寺殿、法名は浄貞じょうてい、道号を松室しょうしつといいます。乙津寺には現在も、大師堂の西に東御方の宝篋印塔ほうきょういんとうが残されています。

天文9年(1540年)

室町時代後期、この年の夏の大洪水では、当寺もその難にあい、宝蔵は崩れ、勅書、御教書、そのほかの史料の数多くが水害で腐ってしまいました。その後に美濃国の大名であった斎藤山城守道三が乱を起こし、天皇家と武士の戦乱の世の中で住職は居なくなり、当寺は大変衰退してしまいました。

天文14年(1545年)

石河氏の鏡島城主・石河駿河守光清いしこするがのかみみつきよ伽藍がらんを再興し、京都妙心寺を開山した無相大師から十世にあたる孤岫宗峻禅師(勅諡大円霊光禅師ちょくしだいえんれいこうぜんじ)を招き、中興開山して褝密兼学の道場としました。戦乱の世の中で真言宗に和尚様がおられなかったのか、天皇家直属の御室御所である仁和寺の領土内に花園法皇が建てた妙心寺から禅師を請じられたのです。以後、当寺は臨済宗妙心寺派となりました。

光清は鏡島城の初代城主と考えられ、その後4〜5代鏡島城が続きます。安土桃山時代の石河氏一族は、織田信長や豊臣秀吉に仕えたと伝えられていますが、はっきりとした記録は残っておりません。城の規模などははっきりとは分かっていないものの、長瀬の住宅の中に鏡島城跡※2として石碑があり、城を守る神社として伝えられている倉稲魂うかのみたま稲荷神社※3が乙津寺の南にあります。その後、関ヶ原の戦いで西軍に属して所領を失ったと伝えられています。

現在も当寺の門前近くに石河駿河守光清の墓(五輪塔)※4があります。この五輪塔の両脇にある墓石には天文23年(1554年)の年号が刻まれています。

石河駿河守光清
孤岫宗峻禅師

【注】
※2
古書「新撰志(しんせんし美濃明細記)」の厚見郡鏡島村には、「古城跡こじょうあとは市場にあり。城主は石河駿河守光清はじめてここに住む。それ多田満仲ただのまんじゅう源満仲みなもとのみつなかの子、大和守従四位下源頼親やまとのかみじゅしいみなもとのよりちか末孫まっそんにて世々だいだい当国の住人也。」と記されています。また、「美濃国稲葉郡志」には鏡島城について「城扯じょうし乙津寺南門の前にあり、石河駿河守光清・光信・光政など、数代此処に居住す」と記されています。

※3
稲荷神社の創立年月は明確ではありませんが、天文てんぶん年間(1532~1555年)に当郡城主・石河駿河守光清によって祀られたものと伝えられています。承応じょうおう2年(1653年)に描かれた「加納領明細絵図」には、稲荷神社とならんで「城跡」と示され、神社南側一帯に鏡島城が描かれています。

※4
石河光清・石河家先祖代々之墓の五輪塔が当寺の門前にあり、岐阜県最古の墓とされています。高さ約1メートル55センチで、「鏡島城主之墓」の立札があります。

永禄・元亀・天正年間(1558~1592年)

織田信長※5は稲葉城を所領し、当寺の霊梅を稲葉山に移しましたが、法難を蒙ったため、元に戻されました。そして、枯れた梅の木で武運長久のために毘沙門天王像を彫刻され、この寺に納められました。

やがて、元亀げんき年間(1570~1573年)と天正てんしょう年間(1573~1592)の間に莫大の勲功があったのはこの毘沙門天王の霊験であると歓喜され、天正時代に大阪に梵刹ぼんせつ(国恩寺、現在不明)を建て、武神の多聞天王(毘沙門天)を移して胎内仏として大師の像を安置され、梅大師御胎佛多聞天うめだいしごたいぶつたもんてんと名付けられたといわれます。

信長は当寺の住職であった蘭叔玄秀※6(孤岫宗峻より二世)に、その梵刹を兼帯(兼務)するように命じました。後の元和元年(1615年)大阪城の落城の時、火事によって堂宇が焼失しましたが、梅大師御胎佛勝敵多聞天王は護持し、再び当寺へ納められたと伝えられています。

【注】
※5
織田信長は地名を「井口いのくち」から「岐阜」に改名したとされています。この「岐阜改名」には諸説がありますが、臨済宗の僧・万里集九ばんりしゅうくの旅行記「梅花無尽蔵ばいかむじんぞう」に、すでに1495年に岐阜という2文字があり、禅僧の間で使われていた岐阜という地名を公式に広められたとみられます。

※6
蘭叔はのちに京都の妙心寺の53世となります。天正6年(1578年)7月には一派の元老として、ほかの35人の宗匠と共に妙心寺法度制定のことにも与かり、天正8年(1580年)には朝廷から紫衣をいただています。天正14年(1586年)9月に、後の陽成天皇から清浄本然禅師の勅諡号を賜っています。
また、蘭叔は「酒茶論」の著者であり、「蘭叔録」という語録も残しています。「酒茶論」は2000字ほどの漢文であり、その内容は酒と茶の優劣を論じ合っていますが、酒も茶もその徳を言いだせば永久に極めることはできず、優劣はないと収めています。「酒茶論」は中国をはじめ、インドにおける禅門の語句を類にあげ、軽妙に禅味を漂わせており、引用として用いられることも多く、後世まで影響を与えたとされています。
また、「蘭叔録」からは、その思想的背景をみることができます。蘭叔の生きた時代は織田信長の時代であり、五山文学の復興の兆しがありました。「蘭叔録」には多くの偈頌げじゅが記録されていることから、当時、乙津寺を中心として詩文の研究の交流場があったと考えられます。

「酒茶論」と「蘭叔録」の原本は、乙津寺にも昭和20年(1945年)の大東亜戦争まで残っていましたが、現在は戦災とともに失われています。東京大学史料編纂所に史料目録⑩「酒茶論(蘭室自筆、天正四年暮春日)」と史料目録⑭「蘭叔録」が残されています。

天正12年(1584年)〜天正20年(1592年)

豊臣秀吉の天下統一後、太閤検地による当寺の寺領については、以下の記録が残っています。

1、『筑前守秀吉公證状』天正某年6月2日筑前守朱印。豊臣秀吉制札壱通。

東大史料編纂所の史料目録⑯乙津寺文書

内容としては、「乙津寺の寺領は前々と相違ないことを認める。また、寺内に軍勢が陣地を構えることも禁止する。付け足しとして、境内の竹木を伐採することは、堅くさし止めさせる。このほか、少しも狼藉ろうぜき(乱暴)があってはならない。もし違反する者がいれば、すぐさま厳しい罰を与える」といったものでした。

秀吉は「羽柴秀吉朱印状」とともに、この旨を乙津寺へ出しましたが、これはいわゆる安全確保の保証書であります。この朱印状は天正某年(年未詳不明)ですが、秀吉と徳川家康が対立した天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」の頃と想定されています。

2、『豊臣秀吉朱印』文禄2年(1593年)10月3日朱印。当村之内50石寄附。

東京大学史料編纂所の史料目録⑯乙津寺文書(六)

また、当寺には豊臣秀吉のご位牌が安置されております。
(宝仏殿に安置されている位牌の戒名)國泰寺殿雲山俊龍大居士
(豊臣秀吉の戒名の正式)國泰祐松院殿雲山俊龍大居士

天正20年(1592年)、信長の孫にあたる岐阜城主・織田秀信ひでのぶは、鏡島の馬渕与左衛門に新しい町を作るように命じ、鏡島港ができました。主に川下からの荷揚げ港となり、荷は岐阜城下町へと運ばれたのです。鏡島を通る東西の街道が「中山道なかせんどう」として公街道になると、鏡島はさらに発展して、街並が東へ伸びていきました。鏡島港の差配人さはいにんであった馬渕与左衛門の墓は、当寺の石河光清・石河家之墓の五輪塔の横にあります。

慶長5年(1600年)

慶長5年(1600年)8月23日、関ヶ原の戦いのであった「河渡ごうど川(長良川)の戦い」は鏡島が戦場でありました。

まず、徳川家康が率いる東軍が、愛知県清須市の清洲城きよすじょうに集結し、岐阜に二手に分かれて攻める作戦を立てました。これは一隊が岐阜城に迫り、もう一隊が羽島市の竹ヶ鼻城たけがはなじょう(羽島市竹鼻町)から、その後、岐阜城に向かうというものでありました。

岐阜城へ攻める隊は、8月21日夜、木曽川の堤防で布陣ふじんを構えていた織田信長の孫・秀信ひでのぶとの「米野こめのの戦い」が始まり、8月23日の早朝に岐阜城を追討します。

もう一隊は、8月22日朝、竹ヶ鼻城に押し寄せて杉浦五良左衛門の一族を追討。木曽川の下流の加賀野井を越えた東軍の黒田長政ながまさ、藤堂高虎たかとら、田中吉政よしまさらは、岐阜城攻撃よりも西軍の来援を阻止するため、河渡川に向かいました。

そこで、喉の渇きを癒し、川の浅瀬の情報を聞くために当寺へ休憩に立ち寄られた諸将は、住職の久室和尚(孤岫宗峻から4代目)に寺について尋ねられ、「勝軍地蔵尊像を拝むとよいでしょう」との言葉を受けて、勝軍地蔵尊の像に合掌し。東軍の開運祈願をされました。

一方で、西軍・大垣城の石田三成は、竹ヶ鼻城の攻撃を知り、大垣進攻を阻止するため沢渡村(大垣市三城)まで出陣し、岐阜からの西軍に舞兵庫まいひょうご、森九兵衛くへえ、杉江勘兵衛かんべえなどを河渡川の右岸に布陣させていました。

濃い霧が立ちこめていた日に東軍は先手を打ち、西軍の陣地を銃撃急襲します。朝食をとっていた森九兵衛は後陣に急を知らせて応戦しますが、初めに田中吉政、つづいて黒田長政が今の河渡橋付近を渡河し、西端に迂回して舞兵庫の陣を突きました。舞兵庫の軍勢はよく防戦に務めましたが、やがて退却します。杉江勘兵衛も勇敢に戦いましたが、田中吉政に討ち取られました。

東軍は、さらに西軍を呂久川左岸まで追撃し、藤堂高虎は赤坂まで軍勢を進めました。西軍の石田三成らは大垣城に退いたので、翌日に東軍は赤坂の高地に集結し、たちまちに関ヶ原へ馳せ参じました。こうして、東軍の諸将らが「河渡川の戦い」を押し進み、慶長5年9月15日に、「関ヶ原の戦い」が始まったのであります。

東軍の諸侯らは、「河渡川の戦い」で赤坂を押さえるという戦果を得て、こうした莫大な勲功を上げることができたのは当寺の勝軍地蔵尊の霊験であると、凱陣がいじんして帰る日に徳川家康に申し上げ、再び当寺の勝軍地蔵尊を参詣されました。

戦後、黒田長政は18万石から52万石に、田中吉政は10万石から32万石に、藤堂高虎は8万石から20万石にと、およそ3倍増の恩賞を受けました。

勝軍地蔵尊は「河渡川瀬踏勝軍地蔵尊」と称され、中山道絵図には「瀬踏勝軍地蔵」と記されています。この仏像は戦災を受けて現存しておりませんが、今でも当寺には開運地蔵尊の軸がございます。また、当寺には徳川家康のご位牌が安置されております。

(宝仏殿に安置されている位牌の戒名)徳蓮社宗誉道和大居土
(徳川家康の戒名の正式)東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士

(岐阜県教育会編、原刊大正13年(1924年)の『濃飛両国通史』と当寺縁起より)

文化9年(1809年)

日本地図を制作した伊能忠敬いのうただたかが、乙津寺に立ち寄り測量をされています。 その日記には、文化9年10月19日(1809年11月24日)に鏡島のこと、石河駿河守の古城跡のこと、連歌師の宗祗の句についてなどが記されています。忠敬の日記に記述されることは珍しく、江戸中期の乙津寺についても記されています。

文政年間(1818~1829年)

仁和寺御室御所おむろごしょより当寺の由緒ついてお尋ねがあり、この寺は元来、真言宗仁和寺の末寺であり、孤岫和尚の入寺によって禅宗に転宗するが、依然として弘法大師を安置すると書面で説明さしあげると、御奇物を寄せられたという資料が残されております。

「御室御所證状」文政2年(1819)4月 泰溪御房(泰溪和尚は当寺転宗14世)
「御室御所御證状寫」天保12年(1841年)2月

明治6年(1873年)

乙津寺境内に甘棠義校かんとうぎこうが開校。後の明治31年(1898年)に鏡島小学校となります。

明治24年(1891年)

明治24年10月28日、岐阜、愛知県に大被害をもたらした濃尾大地震は、マグニチュード8.0であり、激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7,200人余、負傷者17,000人余、全壊家屋180,000戸余りに上りました。当寺も大きな被害※7を受け、ほとんど壊滅に近い状態でした。

【注】
※7
震災後四4年を経過した明治28年(1895年)に、当寺住職の梅園怡庵じあんが震災復興状態を本山へ報告した「寺籍調査表(古佛明細書、古文書明細書、其他史料明細書)」があり、被害状況と建物の規模が記されています。明治28年6月の「境内絵図面」では、絵は非常にやわらかいタッチで高所から地上を見おろしたように描かれており、損傷を受けた建物はほとんど復旧した状態でした。しかし、本堂(假仏殿)や塔頭の梅福院には「かり」とあり、応急的なものであったことがわかります。その後、19世の牧宗牯中住職、20世の栢木義勇住職によって復旧されました。

大正3年(1914年)

大正3年8月25日に当寺の十一面千手観音と毘沙門天が国宝に指定されます。

大正14年(1925年)

大正14年4月14日に当寺の韋駄天像も国宝に指定されます。

昭和20年(1945)

昭和20年7月9日の夜、大東亜戦争(第二次世界大戦)の岐阜空襲で、岐阜市はアメリカ空軍のB-29による編隊爆撃を受けました。当寺の境内も焼夷弾を浴びていっせいに火の海になりました。

当寺には高射砲隊から軍曹と二等兵が派遣され、また、十方信徒諸氏がおりました。すでに空襲が激しくなったことから本堂から庫裏の裏にある土蔵に移動してあったご本尊の十一面千手観音像、毘沙門天像、韋駄天像と、大師堂から弘法大師の像を、高射砲隊達や十方信徒諸氏の協力を得て担ぎ出しました。

すると、仏像を抱きかかえ、堤防まで避難しようとするとき、「空より光に照らされて、その光りが堤防まで誘導してくれた。弘法様の不思議な神通力で安全に避難することができた」と、今も語り継がれています。その後も再興するにあたり、仏様は安置するところがなく、小屋に裸でずっとお祀りし、小僧さんが一緒に寝泊りしていたそうであります。終戦直後の7年間は仮大師堂の状態が続きましたが、旅館の建物を移動させ庫裏としました。

岐阜空襲※8で、本堂、大師堂、庫裏、宝蔵、鐘門、山門、勅使門、古文書、史料などは全て焼失してしまいましたが、現在、宝仏殿にある像は、おかげ様で空襲から逃れ残った像であります。

戦前の大師堂

【注】
※8
岐阜空襲を記録する会編集、1978年11月発行の「岐阜空襲誌」(79ページ抜粋)によりますと、「名鉄鏡島線の駅、弘法東口、北約80メートル(浅野さん宅)に高射砲陣こうしゃほうじんがあったが、鏡島校下など激しい攻撃を受け、『当時鏡島村約750戸中、3分の1の約270戸が焼失した。東西に長い鏡島村の両端には焼失家屋が少なく、中央(乙津寺=鏡島弘法)から西にかけて多く、合渡橋から乙津寺東、約300メートルに至る旧中仙道沿の家並の大部分が焼失した。被災地域は3軒屋の一部、昭和町で3軒、菖浦池で少々、大名田の約3分の1』、乙津寺周辺、古市場、市場江崎の一部、川原畑かわらばた、港は最も大きな被害を受けた」と記載されています。

昭和27年(1952年)〜昭和33年(1958年)

昭和27年10月、日本で初めて国の援助金によって当寺の宝仏殿(国宝安置殿)が建てられました。宝仏殿は鉄筋コンクリート製で藤原様式耐震耐火防災造りです。この宝仏殿の再建に大変苦心、ご協力をしてくださった第70代文部大臣・下条康麿しもじょうやすまろ/在任1948~1949年)の額「施無畏」を宝仏殿に掲示しています。

昭和28(1953年)7月10日に完成し、同年10月18日に落慶入仏供養を行いました。現在は、国指定重要文化財の十一面千手観音、毘沙門天、韋駄天が祀られています。

また、大師堂は昭和30年(1955年)に起工し、昭和33年(1958年)秋に完成しました。大本山妙心寺派管長の古川大航貌下げいか親修により、10月18日に落慶入仏法要を行いました。大師堂の奥には弘法大師像をお祀りしております。

大師堂が再建された当時、帝室技芸員の堂本印象画伯※9が67歳で来寺され、大師堂の天井に墨絵の雲龍を寄進されています。

堂本印象

【注】
※9
堂本印象画伯は、昭和36年(1961年)に文化勲章を受章、昭和38年(1963年)にはローマ教皇ヨハネス23世より、聖シルベストロ文化第一勲章を受章した世界的な画家。「雲龍」は法の雨、仏法の教えを降らすという意味や、火災から護るといういわれがある。当寺の義勇和尚が京都大徳寺(正受院)と縁があり、堂本印象画伯が来寺されたとのことです。天井墨絵「雲龍」は京都で描かれ、リアカーや馬車で当寺まで運ばれたそうであります。

昭和33年(1958年)〜昭和47年(1972年)

昭和33年(1958年)に大黒天堂を建立。昭和35年(1960年)に南山門を復興し、山門古に川大航猊下筆の「瑞甲山」額を掲示。昭和40年(1965年)に不動尊堂建立。昭和41年(1966年)に警官詰所建設。昭和42年(1967年)に書院を再建しました。

昭和43年(1968年)に、明治100年を記念して、堂本印象画伯から「超ゆる空」、「暗香」、「妍春」、「光る庭」の襖絵17面を再建書院に寄進いただきました。この襖絵はピカソの影響を受けたと言われている作品であります。堂本印象画伯が画人としての純粋な意識、つまり無の境地で描かれたものであります。

日本美術の伝統の未来をきり開く世界美術、新時代の新芸術。新しい空間性の創造、世界中どこにもない新領域。東洋美術の真髄から芸術の本質を問い、その究極点からの創造者、芸術境、その心境から生まれた内容の作品であります。また、堂本印象画伯には昭和47年(1972年)に不動尊も寄進いただきました。

平成元年(1989年)〜平成8年(1996年)

本四国八十八ヶ所霊場を改築。大師堂の周りに本四国八十八ヶ所の土砂を移して創設した霊場には、170体以上の仏様が並んでいます。弘法大師の「同行二人」にあやかり、「我は大師と二人づれなり」という心がけをもって創設された霊場です。

また、平成元年(1989年)には弁財天堂も改築いたしました。平成6年(1994年)に客殿庫裏を落慶。平成8年(1996年)に書院を再建しております。

タイトルとURLをコピーしました