知る(由緒・縁起)

弘法大師ゆかりのお寺

瑞甲山ずいこうざん 乙津寺おっしんじは、岐阜市鏡島かがしまにあるお寺です。
奈良時代に行基菩薩が十一面千手観音像を草庵に安置したのがはじまりとされ、
弘法大師とゆかりが深いことから、「鏡島弘法」の愛称で親しまれております。

ごあいさつ

みなさまの心の拠りどころに

この乙津寺は、奈良時代から1200年以上もの歴史を持ち、地域のみなさまには、“鏡島の弘法さん”として親しまれてきたお寺です。境内には弘法大師ゆかりの梅や御神木のクスノキをはじめ、青々とした樹々が茂り、すぐ北を清流長良川が滔々とながれる自然豊かな場所にあります。また、弘法さまの月命日法要を行う毎月21日には、参道から境内にかけていくつもの露店が並ぶ縁日が立ち、より多くの方にご参拝いただき、大変にぎわいます。

お寺とは、どなたにでも広く開かれた場所であるべきだと思っております。宗派に関係なく、ご年配の方も若い方も、小さなお子様にも、さまざまな方に当寺にお参りいただき、みなさまのお気持ちが晴れやかになっていただければ幸いです。

これからも、お参りにお越しいただくたくさんの方々の声に真摯に耳を傾け、みなさまの心の拠りどころとなるような、みなさまに愛されるお寺でありたいと願っております。

瑞甲山乙津寺 二十二世住職
梅園 高秀

縁起・由緒

行基菩薩が開基され
弘法大師が開山

天平10年(738年)、行基菩薩が孤島であった「乙津島」に着船され、十一面千手観音像を彫り草庵に安置されたのが、この寺の始まりと伝えられています。

弘仁4年(813年)、創建開山である弘法大師(空海上人)が乙津島に着船されました。弘法大師は秘法を尽くし、ひたすら願うこと37日間、法鏡を龍神に手向けられますと、たちまち蒼海が桑田となりました。この縁によって、この地は鏡島といわれ、この寺は鎮守乙神(乙津島にいた神の名)に由来して乙津寺と名付けられたとされています。

嵯峨天皇の勅命により、弘法大師は七堂伽藍、塔頭五ヶ寺、鎮守などをわずか3年で造営され、自ら弘法大師像を彫られました。そして、御堂の前に「梅の杖」を立てて、こう言われたのです。「仏法この地に栄えれば、この杖に枝葉が栄えるだろう」。すると、不思議なことにこの梅の杖に、たちまち枝が出て葉がなったのです。このことから、乙津寺は梅寺とも知られるようになりました。

鏡島城主が
臨済宗妙心寺派として再興

中世、乙津寺は洪水などの災害や戦乱により、衰退の危機にありました。しかし、天文14年(1549年)に鏡島城城主であった石河駿河守光清いしこするがのかみみつきよ伽藍がらんを再興します。さらに、京都の妙心寺から無相大師十世にあたる孤岫宗峻禅師(勅諡大円霊光禅師)を招き、褝密兼学の道場としたことから、以後は臨済宗妙心寺派となります。

今も寺の門前の近くに、石河駿河守光清の墓(五輪塔)があります。この五輪塔の両脇にある墓石には天文23年(1554年)の年号が刻まれています。

岐阜県最古のお墓

天文9年(1540年)に長良川の洪水で荒廃した乙津寺を、天文14年(1545年)に復興させたのが鏡島城城主の石河駿河守光清です。門前にある石河家先祖代々之墓の五輪塔は、岐阜県最古級の墓であるとされています。

戦後の再建と
堂本印象画伯の雲龍図寄進

昭和20年(1945年)、第二次世界大戦の岐阜空襲により、寺の御堂などがほとんど全焼してしまいましたが、弘法大師像をはじめとする仏像は長良川堤に運び出され、戦禍から免れました。故に、今日まで弘法大師の法燈が受け継がれています。

昭和33年(1958年)には大師堂が再建されました。また、寺とゆかりがある日本画家で、昭和36年(1961年)に文化勲章を受章された堂本印象画伯が67歳の時に、墨絵の天井絵「雲龍」を寄贈してくださいました。龍神は水をつかさどることから法の雨(仏法の教え)を降らすといわれ、火災から守るという意味も込められています。また、画伯からは、襖絵「超ゆる空」や「不動尊軸」も寄進していただきました。

“日本のピカソ”による襖絵や天井墨絵

書院には、画壇で揺るぎない地位を獲得した日本画家であり、“日本のピカソ”とも称される堂本印象画伯が描いた襖絵「超ゆる空」が秘蔵されています。また、大師堂の天井には、墨絵で「雲龍」が描かれています。

縁記
  • 738年
    天平10年

    行基菩薩が自ら十一面千手観音像を彫り、一宇の草庵を建て安置された。

  • 813年
    弘仁4年

    嵯峨天皇の勅命を受けた弘法大師(空海)が乙津島に着船し、乙津寺を開山。

  • 894年
    寛平5年

    宇多天皇より「霊梅場」の額を賜わり、これ故に国家鎮護のため天皇の祈願古道場となる。
    永正年間(1504~1521)に兵火によって「霊梅場」の額は焼失するが、「下乗」の石碑と宇多天皇の位牌は現存。

  • 1338~1342年
    歴応年中

    武家の土岐氏弾正少弼ときしだんじょうしょうひつが総領職を拝命し、寺領の鏡島一郷を没収した後、改めて二百石を寄付。美濃国守護代々の祈願道場として外護される。

  • 1473年
    文明5年

    公卿・学者の一条兼良かねよしが応仁の乱に荒れる京都を避け、奈良から美濃に来訪し、乙津寺も訪れる。

  • 1545年
    天文9年

    夏の大洪水で宝蔵が崩れ、古書などが水害にあう。また、美濃国大名の斎藤山城守道三が乱を起こし、寺が衰退する。

  • 1545年
    天文14年

    鏡島城城主の石河駿河守光清が伽藍を再興。また、京都の妙心寺から孤岫宗峻禅師を請じて中興開山し、以後、臨済宗妙心寺派となる。
    乙津寺二世の蘭叔禅師は、後の京都妙心寺五十三世となる高僧。

  • 1584年
    天正12年

    豊臣秀吉が乙津寺に、いわゆる安全確保の保証書である「筑前守秀吉公證状(羽柴秀吉朱印状)」を発行。

  • 1601年
    慶長5年

    鏡島が戦場となった河渡川(長良川)の戦いで、喉の渇きを癒すために乙津寺へ休憩に立ち寄られた諸将(黒田長政、田中吉政、藤堂高虎)らが、東軍の開運祈願をされる。

  • 1809年
    文化9年

    日本地図を制作した伊能忠敬いのうただたかが、乙津寺に立ち寄り測量。 伊能忠敬の日記には、石河駿河守の古城跡、連歌師れんがし、宗祗の句など、江戸中期の乙津寺について記されている。

  • 1873年
    明治6年

    乙津寺境内に甘棠義校かんとうぎこうが開校する。この甘棠義校は明治31年(1898年)に鏡島小学校となる。

  • 1891年
    明治24年

    10月28日、岐阜県や愛知県に大被害をもたらした濃尾大地震が発生。乙津寺も大きな被害を受け、寺社のほとんどが壊滅する。

  • 1914年
    大正3年

    8月25日、木造十一面千手観音立像と木造毘沙門天立像が国宝に指定される。

  • 1925年
    大正14年

    4月14日、木造韋駄天立像も国宝に指定される。

  • 1945年
    昭和20年

    7月9日夜、第二次世界大戦(大東亜戦争)の岐阜空襲により、岐阜市がアメリカ空軍のB-29による編隊爆撃を受ける。弘法大師像、木造十一面千手観音立像、木造毘沙門天立像、木造韋駄天立像の4躰の焼失は免れたが、本堂、大師堂、庫裏、宝蔵、鐘門、山門、勅使門のほか、古文書や史料などは全て焼失する。

  • 1952年
    昭和27年

    10月、日本で初めて国の援助金にて宝仏殿が建てられる。

  • 1955年
    昭和30年

    大師堂を起工し、昭和33年(1958年)秋に完成する。大師堂が再建された当時、帝室技芸員で文化勲章受章者の堂本印象画伯が来寺され、大師堂の天井に墨絵の雲龍を寄進される。

  • 1972年
    昭和47年

    堂本印象画伯より「不動尊軸」を寄進される。

本尊

一切衆生を救う
観音様のご本尊

本尊ほんぞんとは、大切な信仰の対象として本堂の中央に安置される仏像のことを指します。乙津寺のご本尊は十一面千手観世音菩薩じゅういちめんせんじゅかんぜおんぼさつで、国の重要文化財に指定されています。天平時代(西暦700年代頃)に作られ、開山以来1200年以上を経て現存します。 頭上の十一面は喜怒哀楽を表し、両脇の四十手にはそれぞれ25の救いがあるとされています。秘仏として宝仏殿に祀られており、毎月21日の縁日に公開しています。

寺院概要

名称乙津寺
所在地〒501-0124 岐阜県岐阜市鏡島中2丁目8番1号
電話番号058-252-2062
山号瑞甲山
宗派臨済宗妙心寺派
本尊十一面千手観世音菩薩
開闢天平10年(738年)
開基行基
創建開山空海(弘法大師)
中興年天文14年(1545年)
中興石河駿河守光清、孤岫宗峻(中興開山)
別称鏡島弘法、鏡島の弘法さん、梅寺
札所東海三十六不動尊霊場31番
新四国八十八カ所霊場44番
美濃西国三十三観音霊場19番
国指定重要文化財木造十一面千手観世音菩薩立像・木造毘沙門天立像・木造韋駄天立像

さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺 法もひろまれ 鶯のこえ

弘法大師の自詠の歌

もっと乙津寺を知る

巡る(見どころ)
巡る(見どころ)
弔う(ご供養・お墓)
弔う(ご供養・お墓)
祈る(ご祈祷・御朱印)
祈る(ご祈祷・御朱印)
タイトルとURLをコピーしました