弘法大師空海

弘法大師空海

弘法大師空海は平安時代初期に実在したお坊さんです。
歴史上、20数人いる大師号のなかで、お大師さまといえば弘法大師空海といわれるほどの人物です。
空海の歩み、空海の生涯について簡略に紹介します。

 少年時代から青年時代

774年、1歳(空海の数え年)。讃岐国多度郡(さぬきのくにたどのごおり)善通寺市で生まれる。幼名真魚(まお)。「宝亀5年(774年)6月15日、父の佐伯直田公(さえき の たぎみ)、母の玉寄御前(たまよりごぜん)の三男。

791年、18歳になると大学(長岡京・現在の京都府向日市)の明経科に入学しますが、入学した大学は官僚を養成する学校で、「困っている人を助けるには、出世のための学びではなく、仏教が必要」そう考えたので大学を中退し、僧の道に進みます。

 修行、長安

797年、24歳。文書「聾瞽指帰(ろうこしいき)」を著す。のちに文書「三教指帰(さんごうしいき)」(儒教・道教・仏教の比較を論ず内容)といわれるものです。

修行7年間、阿波国大滝嶽(あわのくにたいりゅうがだけ・現在の徳島県阿南市)、土佐国室戸崎(とさのくにむろとのさき)などで修行や、和歌山で山岳修行を行い、奈良などの寺院で仏教を学びました。その中、久米寺(くめでら)の東塔に納められていた密教の経典、『大日経』と出会い、仏教密教の教えを深く理解するため、唐に渡ることを決意。

804年、31歳。東大寺(奈良市)戒壇院で授戒。私費の留学僧として遣唐使船に乗り込みました。肥前(長崎県)松浦郡田浦(たのうら)から唐(中国)に向かう。12月、長安(中国の地名)に到着する。

805年、32歳。長安の青龍寺(しょうりゅうじ)で恵果和尚(けいかおしょう)に師事、伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)を受ける。真言密教の第八祖となり「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の名を授けられる。

 高野山、金剛峯寺など

806年、33歳。帰国(空海は、31歳の頃に遣唐使として唐に渡り、当時の最先端である密教を勉強するのですが、本来20年かけて勉強するはずが2年でマスターして日本に帰ってきます)。太宰府(観世音寺)や和泉国の松尾山寺(施福寺・大阪府和泉市)に滞在。12月、高階遠成(たかしなのとおなり)に託して、請来の経典や仏画、密教法具などの目録「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を朝廷に提出する。

809年、36歳。和泉国から京に移り高雄山寺(神護寺・京都市右京区)に滞在。

810年、37歳。10月、高雄山寺(神護寺)において鎮護国家のために修法する(嵯峨天皇の書を奉り、「真言宗」を開く許しを得、布教を開始)。

812年、39歳。11月、12月、高雄山寺(神護寺)で最澄らに学修灌頂。

813年、40歳。11月、最澄の「理趣釈経(りしゅしゃっきょう)」借覧の求めに対して、断りの答書を送る。

815年、42歳。真言密教を広めるため、弟子康守(こうしゅ)、安行(あんぎょう)らを東国の徳一、広智(こうち)らのもとに遣わし、密教教典の書写を依頼する。

816年、43歳。修禅の道場建立のために高野山を朝廷に請う。7月、高野山の地を賜う(唐より帰国して10年が経ちました)

818年、45歳。勅許(ちょっきょ)後、始めて高野山(和歌山県伊都郡高野町)に登る。

819年、46歳。高野山に金剛峯寺金堂(本堂)を建立。「即身成仏義」(密教の究極の教え:人間が現世で受けた肉体のままで仏となるという教え)など著し始める。

820年、47歳。10月、嵯峨天皇より伝灯大法師位(でんとうだいほっしい)を賜い、内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんし)に任命される。

空海が創建した「金剛峯寺」

金剛峯寺は、高野山真言宗の総本山。高野山は「一山境内地」と称し、高野山全体がお寺という考え方で、本堂は、大伽藍「金堂」。 なお、高野山内には117の寺があり、そのうち51ヶ寺は宿坊(宿泊施設)です。

 文化活動、東寺

821年、48歳。讃岐国の満濃池(まんのういけ、香川県仲多度郡まんのう町)を修築。この満濃池は田畑を潤す大切な池であったが、規模の大きさや人足が集まらないことなどにより、なかなか完成の見通しが立ちませんでした。空海は人々を救うために修復工事を指導しました。

822年、49歳。勅により東大寺に灌頂道場を建立し、国家鎮護の為、息災増益法を勤修。

823年、50歳。弘法大師空海は、東寺(京都市南区)を授けられ、教王護国寺として密教の根本道場(総本山)と位置づけました。

真言宗の歴史は、823年に東寺が嵯峨天皇から空海に下賜(かし)され、真言密教の根本道場のお寺になったことが真言宗の始まりとされています。

825年、52歳。東寺講堂の建立に着手する(839年に完成)。

828年、55歳。東寺から東に歩いて数分の場所に、だれでも勉強できるよう京都に「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という私設の学校を創立する。

830年、57歳。「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」(真言密教の体系)十巻、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」(「十住心論」を簡略化したもの)三巻を著す。

835年、62歳。高野山においてご入定(にゅうじょう:3月21日)

921年。醍醐天皇より弘法大師の諡号(しごう)を賜う。

 空海とうどん

うどんの発祥については諸説ありますが、そのうちの1つに「弘法大師空海が唐からうどんの製法を日本に持ち帰った」という伝承があり、香川では定説となっています。
空海が唐から持ち帰ったのは仏教や先端技術のみでなく、うどんは空海が唐から日本へ持ち帰り、それを讃岐の地に広めたのが起源と言われています。

 三筆(さんぴつ)とは

日本の書道史上のうちで最も文字を上手に書くことに優れた三名の方です。
空海、嵯峨天皇(さがてんのう)、橘逸勢(たちばなのはやなり)の三名です。

創建開山、鏡島弘法

813年、嵯峨天皇の勅命を受けた弘法大師空海が乙津島に着船し、乙津寺を開山と伝承。
境内の拝殿奥にある大師堂には、弘法大師坐像をお祀りしております。
2021年、鏡島弘法に黄金の弘法大師像が奉安されました。

弘法筆を選ばず

ことわざ
名称乙津寺 (通称:鏡島弘法)
所在地〒501-0124 岐阜県岐阜市鏡島中2丁目8番1号
西岐阜駅から車で約5分 岐阜バス「鏡島弘法前」バス停から徒歩5分
  駐車場  無料駐車場80台あり
 寺務所受付時間 9:00~12:00 (毎月21日、1月1〜3日は9:00〜17:00)
電話番号058-252-2062
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